第6話 由羅という名の

        /由羅

 ……え?

 また驚かされてしまった。
 斜め前に座っている人間が振り返る――そうすれば、何らかの反応があるはずだったのに。
 いや、あるにはあったのだが、どうも予想していたのと違う。
 彼はきょとんとして数瞬こちらを見つめた後、さっさと渡すものだけ渡して正面を向いてしまったのである。――その後の反応は、無し。

 なんで……?

 またまたわけが分からなくなった。
 この人間の反応は、まるでこっちのことなど知らないといった、他人の反応である。他人であることには違いないけれど、無視できるはずなんてないのに。

「覚えて、いない……?」

 あの時のことを。
 そんな風な印象を、受けてしまう。

「…………」

 どういうことなのだろうか。
 ……じんわりと痛む左手は、今でも変わらぬ確かな現実。
 私は動くことさえできなくて、ただ彼の後ろでその背中を見続けた。

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        /真斗

 二時間目が終わって。
 お腹が鳴り出すのを堪えていた俺は、食堂直行を心に決めて立ち上がる。

 うう、腹減った……。

 いつも朝食を抜いているせいか、学食とはいえ昼食は待ち遠しい。
 そのまま席を離れようとして、不意に足が止まった。
 視線――誰かがこちらを見ている視線に気づいて、何気なく横に目を向けて。

 ――少し、驚いた。

 あの少女が、こちらを見ていたのである。
 一時間目の時に、後ろの席に座っていた少女。
 それが、この授業にも後ろに座っていたのだ。
 科目が全く違うため、一時間目と二時間目では教室は違うし、学生の種類も違う。例え偶然同じであったとしても、果たして座る席までこんなにも近しいことになるだろうか。

 ……そりゃあまあ、あるだろうけどさ。

 あるだろうが、だとしても無視はできなかった。――何より、そいつがこちらを見続けているんだから。
 数秒たって、動いたのは少女の方だった。
 どこか――意を決したように。

「ねえ……どうして何も言わないの?」

 ……はあ?

 出し抜けにそう言われて。
 さすがに俺も戸惑った。

「……誰だ、お前?」

 知り合いでないことは間違いない。
 こんな美人はお目にかかったことがないと、ついさっきも思ったのだから。

「誰って……」

 聞かれて、その少女は反対に戸惑ったようだった。

「そんなこと――どうでもいいじゃない! 覚えていないの、夜のこと!」

 いきなりムッとなって少女は怒ると、何やら意味不明なことを言ってくれる。

「はあ……?」
「惚けないでよ!」
「阿呆。誰が惚けるか。何だか知らねえけど、変な言いがかりはごめんだ」

 じゃ、と言ってその場から歩み去ろうとする俺を、そいつは俺の腕を掴んで無理矢理引き止める。
 意外なほど、力強かった。
 ていうか痛い。

「んだよ?」
「私、困ってるの! そ、その……あの時のことは謝るから、許してよ……」
「はああ……!?」

 少しもじもじとしてそう言う少女を。
 まじまじと、俺は見返すことしかできなかった。

 食堂。
 二時間目終了後――つまり昼時の学校食堂というのは、凄まじいまでの混雑を極める。
 そんな人ゴミの中で、我ながら惚れ惚れする観察眼で席を確保して、俺は日替わり定食を食べていた。慣れたもんだ。
 で、その横で、不機嫌そうな面持ちの少女は俺を眺めている。
 その容姿のせいで、周囲から少なからず注目を浴びていたが、まったく気にする風はない。

「……やっぱり私のこと恨んでるの?」

 さっきからもそうだが、言ってることがよく分からん。

「わけのわかんねーこと言って、付きまとわれるのは迷惑だけどな」

 けど恨むって何だよ、と言うと、そいつはムッとなる。

「……こんな人の多い所にわざわざつれてきて。私、人間見てると――」
「勝手についてきたのはそっちだろーが」

 少女が言いかけていた言葉を遮るように、俺も不機嫌そうに言ってやる。

「俺はお前のことなんて知らないの。そういうわけだから人違い。あっち行けって」

 ひらひらと手を振る彼へと、少女は更に機嫌を損ねたようだった。

「この馬鹿っ。どうして一日もたってないこと忘れちゃうのよ! 人間ってそんなに馬鹿なの? それともあなたが特別馬鹿?」

 ……初対面に相手に向かって、よくもまあ。

「ばかばか言いやがって……」

 思わず表情を引きつらせながらも、俺は昨日のことを思い出してみる。
 昨日といえば、学校に行って、途中で授業を抜け出して事務所に行って、それから一旦下宿先に戻って仮眠した後、深夜を待って出かけたのだ。結局収穫は無く、帰った後はすぐに眠ってしまったが。

 そんな昨日のことをつぶさに思い出してみても、今妙な因縁をつけてきている少女との接点は見出せない。
 しかも、何があったかは知らないが、許してくれときたものだ。
 恐らく人違いなのだろうが、相手の少女は信じて疑ってないらしく、そんな彼女を追い返すのは苦労しそうな気がして、少々憂鬱になってしまう。
 少し思案してから、俺は聞いてみた。

「まず、だ。お前は俺のことちゃんと知って言ってるのか?」
「え?」

 意表を突かれた質問に、少女は小首を傾げる。

「だーかーら。例えば……そうだ、俺の名前とか。ちなみに俺はお前の名前なんて知らねえぞ」
「なまえ……」

 なでだか少女は、その言葉にしばし黙り込んでしまう。

「?」

 なんだ?
 何か俺、変なことでも言ったか?
 そんな少女の反応に、俺は眉をひそめてそいつを見返す。その俺へと、少女はどこか自信なさげな声で、小さくその名を告げた。

「ユ……、ユ……ラ」
「は?」
「……だから。私の名前……たぶん、そういう名前だったと思う」
「なんだよそれ」

 当然のごとく、怪訝な顔になる俺。

「だった、ってのは何なんだ? 自分の名前だろうが」
「うるさいわね……。だって、名前聞かれたの初めてだったんだもの。私は気にしてなかったから……」

 何なんだ、そりゃ。

「お前、俺のことからかってるだろ」

 半眼で言ってやると、そいつはむかむかっとなったようだった。
 おお、分かりやすい性格。

「せっかく頑張って思い出したのに!」

 ……頑張って思い出さなきゃならん自分の名前ってのは何なんだよ。

「ま、いいけど」

 む~となっている少女を横目に、俺はぱくぱくと食事を喉に通していく。

「それで? お前の名前はわかったけど、俺のことは知ってるのか?」
「知るわけないじゃない」

 そんな偉そうに言うなって。

「……じゃあやっぱり人違いだろ。俺はお前の顔も名前も知らないし、お前も俺の名前すら知らないんだから、どっかで会ったってことはないだろうさ。人違いったら人違い」

 至極まっとうなことを言ってやったのだが、こいつは納得してくれないようだった。

「そんなわけないでしょ。あなたは記憶力ないのかもしれないけど、私はちゃんと覚えてるんだから」
「しつこい奴だな。落ち着いて飯も食えやしないぜ」

 ちゃんと食べてるじゃない――との少女の言は、この際無視。
 無視されて、うう、と歯噛みしたようだった。

「じゃ、じゃあ食べ終わるまで待つから。……終わったらちゃんと、話してよね」

 ……反応は、そこそこ可愛いんだけどなあ。
 何だかんだいってこいつ、けっこう律儀っぽいし。
 何て思っていたら、早速口を開いてくる。

「……ねえ」
「なんだよ」

 つい反射で答えてしまってから、しまったと思った。食べ終わるまで待つんじゃなかったのかと、皮肉の一つでも言ってやれば良かったのだが。

「あなたにも名前、あるんでしょ?」
「そりゃああるさ」
「じゃあ教えてよ」
「……なんで?」
「なんでって……」

 思いもよらない返答だったのか、少女は一瞬返す言葉につまったようだった。
 ま、いいか。
 別に教えたからって呪われるわけでもねえし。

「桐生だよ。桐生真斗」
「ふうん……。確かこの国って、固体を表す名前って、下の方だったよね?」

 固体って……また妙な表現を。

「……まあ名字じゃない方はな」
「じゃあマサトでいいってことね。どういう文字を当てるの?」

 先程からずいぶん妙な言い回しをするものだと、俺は胡乱げに思う。日本語は遜色無く使ってはいるが、容姿といい、物言いといい、やはり日本人ではないらしい。外国人となると、その方面に知り合いのいない俺としては、ますます人違いじゃないかと思ってしまう。

「文字って、漢字のことか?」
「さあよく知らないけど……私の名前も、それで書けるといいなあって思って」
「ふうん……」

 外国人って、そんな風に思ったりするのだろうか。
 俺にはよく分からんけど。
 頷いて、とりあえず俺は人差し指でテーブルに、『真斗』と漢字で書いた。

「じゃあ私のは?」

 それだけで分かったのか、今度は自分のを書いてみてくれと、興味津々な様子で促してくる。まったく何なんだろうな、と思いながらも、俺は考えてみる。

「ゆら……だったよな。どっちもあんまり思いつかねえけど……」

 ぶつぶつと洩らしつつ、俺はいくつか書いてみた。

「へえ……。けっこうたくさんあるのね」
「そりゃあな。同名の奴なんてけっこういるんだ。せめて使ってる漢字くらい違いがないと、つまらんだろ?」
「うーん……そうかもしれないね」

 同意しながら、彼女も真似するように人差し指で文字を書く。書いたのは、『由羅』という漢字の組み合わせだった。

「私、これが一番いいかな。何となく気に入ったから」
「まあお前のことだからな。好きにすりゃいいけど」

 嬉しそうに言う少女――由羅へと。
 狐にでも化かされているような気分を味わいながら。
 俺はそっと、その表情を見つめてしまっていた。

「で、俺もう帰るけど?」
「ちょっと!」

 駐輪場まで来てそう告げた俺へと、当然のごとく激怒したのは由羅である。

「ご飯食べたら話するって約束したじゃないの!」
「何言ってんだ。結局飯の間中しゃべってたくせに」

 ぐ、と一瞬詰まる由羅。

「本題は後って意味。私、私ねえ――本当に困ってるんだから。夜ほどじゃないけど、今だって……」

 言って、由羅は何を思ったのか左手にはめていた手袋を取った。そしてその甲を俺に見せる。

「!」

 ――これは。

「お前……?」

 さすがに表情が変わるのを感じた。


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