第3話 少女二人

        /由羅

 私はいったい誰なのか。
 目覚めたものの、ちっとも思い出すことはできなかった。

 満天の星空――新月の夜に、星々はよく映える。
 周囲には明かりは無く、どこまでも広がる草原と、朽ちかけた古城があるのみだ。
 何の障害も無いその場所で、それらを眺めるのが好きな者ならば、恐らくいつまでも見上げていることができただろう。
 でも私は、崩れ落ちた古城の瓦礫に隠れるように、身を震わせていた。

 ……時折自問する。
 なぜ自分はこんなところにいるのか。
 どうしてこんな所に隠れて、怯えているのか。
 そもそも自分は何者なのか、と。

 目覚めて、そしてようやく自分というものを認識し始めた時には、もう追われていた。誰に追われているのかも、どうして追われているのかも分からない。
 怖くて逃げている――ただそれだけしか、分かっていることはない。
 今はこの場所に誰もいないが、いつまでも留まるわけにはいかないだろう。いずれ、見つかってしまう――そんな気がする。
 少しでも遠くへ、行きたい。
 そんな風に思った、矢先だった。

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「……こんばんは?」

 不意に声をかけられて、私はぎくりとして頭を巡らす。
 誰もいないはずだったのに――その確信があっさりと打ち砕かれていくのを感じながら、私は恐る恐る声のした方を見上げた。
 隠れていた瓦礫の上に危なげなく立って、見下ろしている影。
 月が無いせいで、よくは見えない。それでも私ははっきりと、その姿を捉えていた。
 見下ろしていたのは、自分よりもずっと小柄な少女。
 濃い金髪に、紅い瞳が印象的な少女は、じっとこっちを見下ろしている。

「……こんなところで何をしているの?」

 少女は、その無表情にほんの僅か興味のようなものを滲ませて、重ねて口を開いた。
 冷たくて、澄んだ清涼を思わせる声。
 追手じゃない……?
 何の根拠も無かったが、そう思った。

「貴女も散歩?」

 答えられないでいると、その少女は小首を傾げて尋ねてくる。

「散歩……?」

 思わぬ言葉だった。
 見渡す限り民家の明かりすらないこんな場所を、こんな深夜に散歩だなんて。

「うん。わたし、滅多に寝たりしないから。今夜みたいに静かで綺麗な夜は、いつも出歩いているの。貴女も?」

 違う。自分は追われて逃げて、隠れているのだから。
 首を横に振ると、少女はそう、と頷く。

「じゃあ何をしているの?」

 当然の質問。でも私には答えられない。

「……わからない。わからないの……どうしてこんなところで逃げ隠れしているのか」
「逃げる?」

 その言葉は、少女にとって意外だったようだった。

「貴女、とても強いのに。とても力に溢れていて、綺麗だったから、遠くからでもわかったの。それに、何となくレダに似ていたから……」

 だから、声をかけてみたのだと。

「…………?」

 わけが分からず、少女を見返した。

「強いって……私が?」
「うん。とても」
「そんな――何を言って……」
「わたしは嘘は言わないよ」

 矜持を傷つけられたとでも感じたのか、少々不満げに少女は言う。

「あ、その……?」

 ぎくりとした。
 そんな僅かな表情ですら、その少女には迫力があった。それこそ気圧されてしまうような。

「いい夜だから、少し一緒にいていい?」

 そう言うと、少女は答えも待たずに瓦礫から飛び降りて、真横に並んで腰を落ち着けてしまう。
 困惑気味な私などお構い無しに――である。
 初めは警戒していたが、やがてぽつぽつと会話をするうちに、この少女がとても無垢で純粋なことが分かって、次第に気分が和らいでいった。そして口数も多くなっていく。

 目覚めてから誰とも話すことなく、ずっと一人でいたせいか、こうやって誰かと話せることは嬉しかった。
 少女は決して饒舌では無かったが、不自由はしなかった。何かを聞けば必ず答えてくれるし、よく質問してきたりもする。
 そんな中で分かったのは、自分は己のことを何も知らないということ。
 あるのは逃げてきたという記憶だけ。
 きっと、これまでの記憶を失ってしまっているのだろう。

「……もしかして、困ってる?」

 しばらくじっくり話を聞いて、少女はそんな風に尋ねてきた。

「……そうかもしれない」
「じゃあ、わたしの所に来る? ……あ、でも今は駄目」

 少女は言いかけたことを、すぐに思い直して頭を振る。

「今はね、二人で旅行中だから。その間くらいは二人きりでいたいの。だから邪魔は嬉しくない」

 あっさりと、私は邪魔だと言ってくれる。
 ただ全く悪意は無く、現実をそのまま告げただけの言葉。
 まだ少し話した程度であるけど、何となくこの少女らしい。

「二人?」
「うん。大好きなひとと、一緒に旅行してるの。私の故郷を見てみたいって言うから。今は夏休みっていうので、しばらく時間があるから……その間に」

 何やら嬉しそうに、少女は言う。
 へえ、と思う。
 今までで最も感情に富んだ表情を見せた瞬間だったからだ。

「だから、旅行が終わった後だったらいいよ。もしよかったら」

 来ていい、と。
 警戒はあった。
 でも同時に嬉しいとも感じている自分。
 そしてまた違うことを考える。……どうしてこんなにも、この少女は気を遣ってくれるのだろうか、と。

「……わたしは自分のこともわからない。どうして追われているのかもわからない……そんなわたしを?」
「遠くに行きたいんでしょ?」

 それなら都合がいいんじゃないかな、と澄まして言う。
 都合って……。

「だ、だから……私の都合じゃなくて、あなたの都合」
「? わたしは気にしない。だから言っているのに」

 どうしてそんなことを聞くのだろうと、不思議そうに首を傾げる少女。
 無警戒というか、呑気というか……思わず呆れてしまう。というよりも、状況を正確に把握しているのだろうかと、疑いたくなる。
 追われている者を匿う――助けるということは、そうする者も同じ危険に晒されるということ。この少女はそのことを分かって言っているのだろうか。

「危ないことしてるって……思わないの?」

 その問いに。
 少女は微かに笑ってみせた。
 その微笑はとても綺麗だったけれど、自信に満ちて、そしてどこかに危なさを含んでいて。

「わたしと一緒にいる方が危険だって、いつもそう言う知り合いがいるよ」

 あっけらかんと、何やら聞き捨てならないことを言う。

「だからね、よく考えてから決めた方がいいかもしれないね」
「…………」

 何だかいつの間にか、逆になってるような気がするんだけど……。
 面白げにささやく少女は、本当に不思議な存在だった。

「それで、もしよかったら日本という国に来てみて。今は京都っていう場所に住んでいるから」
「……ニホン? キョウト?」

 どちらも知らない名前で、戸惑ってしまう。

「ここから海を越えたところにある国。ちょっと遠いけど、ちょうどいいと思う。あそこはアトラ・ハシースの影響力も……絶対ではないけど、あまり届かないから」
「え……?」
「貴女が人間じゃないことくらい、一目見てわかるよ。貴女が異端者であるということと、逃げてきた場所から判断すれば、追いかけてきているのは多分あの人たち。わたしもあの人たちは嫌いだから」

 アトラ・ハシース……その名前はどこかで聞いたことがあるような気がする。よくは思い出せないが。

「それと貴女を追っていた人たち……適当にあしらっておいたから。貴女と話すのに邪魔になりそうだったし。だから……しばらくは安心していいと思う」

 あしらうって。
 何やらとんでもない台詞を、何でもないようにさらっと少女は言う。
 しかしそれよりも、この少女はどうしてそんなことが分かるのだろうか。

「ね、ねえ……あなた、私が誰だか知っているの……?」
「知らないよ?」

 思わず聞いたのだが、返ってきたのはあっさりとした否定の言葉。

「じゃあ……あなたは何者なの?」

 そう聞かずにはおれず。

「わたし? わたしはね……」

 ――この少女に出会ったこと。
 それが果たして良いことであったのか悪いことであったのか――それは分からない。
 ただこの少女が導き手であったこと、それは確かな気がした。

 だから今私は―――ここにいる。


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