俺が大学に入ってから約八ヶ月。
これまでに受けた仕事は、三件。どれもがまともな内容では無かった。
世の中には色々と不思議なことがあるわけだが、こと日本において魑魅魍魎、妖怪変化というものは、そういった不思議の一つである。
実在するかどうかはともかく、その存在は誰もが知識として知っている。しかし実際にそれらを目撃した者となると少なく、例えそう公言したところで大半が冗談として扱われてしまう。
そのせいか、俺のような存在も、冗談として捉えられがちであった。
調伏師・降伏師――西洋ではエクソシストなどと呼ばれる存在。
呼び方は様々であるが、そういった一般とは一線を画す人材とそれらを擁す組織が世界にはいくつか存在し、またこの国にもあった。
もっとも有名なのが、アトラ・ハシースと呼ばれるヨーロッパに本拠を置く組織らしい。彼らは日本で言う妖怪変化といった人間外の類をまとめて異端とし、抹殺の対象としているとか。
異端者、と呼ばれる存在がある。
アトラ・ハシースの影響がさほどないこの国ですら、現在ではその名がよく通っている。
俺が今までに関わってきた仕事というのが、どれもがその異端者に関わるものであったことは言うまでもない。
大学に入るまでの間、中部では最も名の知られた調伏師の家系である九曜家にて、俺はその術を学んできた。そこで一人前と認められた者は、各地方ごとにある九曜の下位組織の一員としての未来が待っている。
しかし落ちこぼれとなると、また話は違ってくるのだ。いかに九曜というブランドが高くとも、そこに認めてもらえなければ引き取り手は存在しなくなる。
俺の場合は運が良かったのか悪かったのか、そういった組織の情報収集の役割を担う出先にて――つまり柴城興信所にて、アルバイトという形で雇ってもらうことになった。ちなみにこの興信所は、九曜の関西における最大拠点であるけいと計都神社の末端組織にあたる。
それが今年の四月のこと。俺が大学入学の為に京都で下宿するようになると同時に、どこからか情報を嗅ぎ付けてきた所長が、ふらっと俺の前に現れて勧誘したのである。
それから三つの仕事を片付けてきた。八ヶ月でこの量は多いのか少ないのか分からないが、少なくとも順調ではあった。報酬も、まあ悪くない。かなり危険なこともあったが、それで嫌にならない程度には、この仕事のことを好いていたのかもしれない。とにかく無駄になるかと思われた技術を活かす事ことができ、今後ものんびりと仕事があれば受けていくつもりだった。
だが今回は。
「どうも、な……」
受ける前から感じていたことであるが、やはり気乗りしない。
とはいえなぜそう思うのかというはっきりとした根拠も無い。だから余計にしっくりこないのである。
深夜の街中を、俺は一人歩いていた。
時刻は午前三時過ぎ。
俺の地元ではありえないことであったが、さすがにここは都会だけあって、夜中でもぽつぽつと人の歩く姿を見ることができる。
それでも三時頃になってくると、さすがに人気はなくなる。深夜の客待ちのタクシーもいなくなり、市街地から離れた場所では完全に静寂に支配されていた。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
防寒着に身を包んで、寒さに身を縮めながらゆっくりと歩き続けた。
場所は、ここ数日通り魔殺人の起きている現場近く。
簡単に遭遇できるとは思っていないが、まずは歩くしかなかった。
/由羅
――夜。
人の寝静まるこの時刻に、散歩することはいつのまにか日課になっていた。
散歩――確かに寝付けない夜にはいいかもしれない。
そう思って、夜を翔ける。
もちろん、ただの散歩で終わらすつもりは無い。
ここ最近の日課になりつつある愉しみを、今夜もするつもりだった。
「ふふ……」
昨夜のことを思い出して、思わず笑みがこぼれる。
三回目にして、何となくコツを掴んだような気がした。だからこそ昨夜は、今まで以上に長く……苦しみ悶える姿を見て、愉しむことができたのだ。
再びそれを体感したくて、眼下を探した。
今夜の獲物――生贄を。
ふと目に止まったのは、酔っ払っているのか、千鳥足で歩いている女だった。
あれで、いいかな。
今まではずっと男だったから、ちょうどいいなと判断して。
夜空を舞う私は、そっと地面に降り立った。
/真斗
毎夜の通り魔のせいで、この地区に限らず京都市一帯では注意が喚起されている。
人々の大半は警戒しているはずなのだが、それでも不用意に夜の町を歩く者はいなくならない。
警戒しながらも、自分がその対象になるかもしれないとは、誰もが心から思っていないからだろう。確かに低い可能性だろうが……。
それにも関わらず、だ。
「……まったく」
その少ない可能性にすがって、深夜の町を歩き続けて一時間。
時刻は午前四時。
十一月にもなると夜明けは遅くなるが、だからといって人々の出勤時間も遅くなるというわけでもない。
五時半くらいになれば早い人ならば出勤を始めるし、重要路線の市バスも動き出す。
つまりあと一時間ちょっとくらいの間でしか、完全に人目につかない犯行というのは難しい。
もっとも今まで通りに屋外で行われるとも、同じ現場付近で行われるとも限らない。それにもしかすれば、すでにどこかで終わってしまっているかもしれない。
一番確実なのは、犯人が俺を対象に選ぶことであるが、正直選ばれたくなどないし、可能性としてもかなり低いだろう。
やはり何日もかかるか――そう思い始めた矢先、だった。
「――――」
角を曲がったところで、ふと足を止める。
何かが聞こえたわけではない。
ざっと見回すが、不自然なところは特に見られない。――それでも、違和感があった。
「……なんか変だな」
初め自分は左に行こうとしていたのだ。にも関わらず、気づくと右に曲がってしまっていた。
ぼうっとしていたからだろうか。いや……そんなはずはない。
自分は今、左に曲がったつもりで右に進んでいたのだから。
まるで何かに化かされたような気分が、何かを訴えかける。
これはおかしい――と。
「もしかしてもしかするかも……な」
つぶやいて、俺は思い切って百八十度方向転換した。
行くはずだった左の道へと、進路を変える。
俺が九曜家で今までに習ったもののなかに、咒法というものがある。日本風にいえば調伏ノ法といった法力のようなもので、魔法じみた力のことだ。
日本独自に発達したものもあるが、西洋で発達したこの咒法は少なからず日本にも伝播している。
九曜家には十六世紀にはすでに伝わっていたといわれ、日本の中では特に深く、西洋の術に精通しているという。
そのせいか、俺が習得したものもどちらかというと、西洋のものに近いものだった。
そういった咒法の中には、簡単な精神支配に関わるものもある。精神支配といっても洗脳に至る高度なものから、暗示程度の簡単なものもあるのだが、もしかするとその暗示が――つまり人避けの類のものが施されているのではないかと、疑ったのだ。
咒法について深く習熟した者には効きにくいらしいが、俺にしてみれば何となく違和感を覚える程度だった。うっかりしていれば、見逃していたかもしれない。
もっともただの思い過ごしなのかもしれないが……。
そこから更に数十メートル進んだところで。
いきなり悲鳴が上がった。
/由羅
近くに民家が無いわけではない。
しかしこれだけの悲鳴が響いても、誰も不審がって覗こうとする者はいないようだった。
まあ誰かが嗅ぎ付けてきたところで、特に困ったことじゃない。愉しみが増えるだけだもの。
頬を切り裂かれて血に染めていたその女は、ガチガチと全身を震わせて、自分の首を掴んでいる私へと心底の恐怖を表明していた。
そんな様子に、私は微笑する。
そう……そういう表情を、私は見たいんだから。
私の手はその人間の女の首へと伸びており、少し力を込めれば首の骨など簡単に握り砕くことはできたが、そうはしなかった。
殺すことなど簡単であったが、別段それが目的というわけでもない。――それに至る過程こそが、愉しみなのだから。
「――――?」
これからというところで。
何かが、首へと伸びた手を貫通した。
穿たれた穴からは鮮血が塗れ、痛覚が不快な感覚となって伝わってくる。
どさり、と掴まえていた女を地面に落とすと、私は周囲に視線を巡らす。
そして。
こちらに何かを向けている男と、目が合った。
/真斗
サイレンサー付きの拳銃から、風に揺られてゆっくりと硝煙が流れていく。
――手を出すつもりは無かった。
あらかじめ予想していた後悔を覚えながら、俺は相手に向けた銃口を逸らすことなく、相手を正視する。
その少女はきょとん、とした表情で、こちらを見返してきた。
……銃で撃たれた反応がそれかよ。
苦々しく、思う。
まだ二十歳には届いていないだろうと思われるその女は、淡い色をした長い髪の持ち主で、アイスブルーの瞳でこちらの姿を映している。
その両手は自らの血と他人の血とで、赤く染められていた。
おいおい……。
その光景に、背中に冷や汗が流れ落ちるのを感じる。
今回の犯人は、どんなイカレた野郎かと思っていたのだ。人間にしても、そうでなくても。
しかし実際は、こんな少女ときたものだ。
淡くて長い髪を、真っ直ぐに下ろしている少女。
こんな闇夜にでも良く映えている、アイスブルーの瞳。
「ああ、くそ」
女の容姿とは裏腹に、俺は手を出してしまったことを激しく後悔し始めた。
そして身体が訴えてくる。
……はやくにげろ、と。
この女はまともじゃない……!
しかしまるで金縛りにあったように、動けなかった。女のその瞳がこちらを映している限り、永遠に動けないのではないかと思うほどに。
「ふうん……こういう日もあるんだ」
口を開いた女は、傷口を舐めながら面白そうに言った。
「今日は二人……それとももっと増えるのかな」
そうつぶやいたところで。
足元で倒れこんでいた女が、その場を脱兎のごとく逃げ出した。
その突然の行動に金髪女の視線が逸れ、俺はなんとか身体の自由を取り戻す。――少なくとも、そのきっかけにはなった。
「――逃がさないよ?」
くすりと笑って、女は軽く地面を蹴った。
「! おいっ……!」
その女の迷わない行動に、俺はは思わず叫ぶ。しかしそんなことなど、何の役にも立ちはしない。
拳銃を向けたその時には、そいつは空高くに舞い上がっていた。
十メートル以上――とても人間技じゃない!
「ち――くそっ!」
相手の正体を確認することもなく、俺は再び引き金を引いた。
あいつは――人間じゃない!
二発――だがどちらも空しく虚空を突き抜ける。
女は空中で僅かに振り向いて笑うと、そのまま地面へと落下する。――悲鳴を上げて逃げ惑う、女の背へと向かって。
すぐにも嫌な音が響き渡った。
地面に着地する音に混じって、肉を潰し、骨を砕く生々しい音が。
「てめぇ……っ」
「――こういうのも、あっさりしていていいかもね」
完全に潰れ、血の滲んだ背中から足をどかしながら、女は顔色一つ変えずにそう口を開く。
――こいつだと、直感した。
ここ連日起こっている、通り魔殺人の犯人は。
「それにお楽しみは、あなたでいいし」
「――言ってろ!」
構わず、俺は銃を連射した。
一発が女をかすめ、そのことにそいつは表情を喜ばせる。
「私に付き合ってくれるんだ。――楽しみ」
そうささやいて、俺に向かって跳躍する。
現在の弾倉には残り一発――そいつの接近速度はまともな速度ではなかったが、それでも撃ち出される弾丸ほどではない。
俺は真正面からせまる女へと、躊躇い無く引き金を絞る。
――銃技に関しても、咒法と同じように九曜家で習ったことだった。他にも多種多様に習いはしたが、拳銃の扱いが一番であったことから、今でも銃を中心にしている。
相手は女――だが。
やらなければやられる。
これは、そういう相手だ。
放たれた弾丸――さすがにこれは、かわせない。
そいつは身体を逸らしたものの、その一発は胸へと命中した。
よろめき、失速するが――女はすぐにも体勢を立て直すと、再び地を蹴る。
まともじゃない。
「化け物が――」
舌打ちして、俺は即座に予備の弾倉へと変える。同時にその場から動こうとしたが、その時にはすでに、目前にそいつの姿があった。
伸ばされた手を思わず銃で受け止めた瞬間、その信じがたい衝撃に暴発してしまう。
「――ほら。捕まったらさすがに終わりじゃない?」
熱くなった銃身を素手で握り締め、女は笑う。どんな握力なのか、それは今にも銃を握り潰しかねないほどだった。
「…………っ!」
眼前に、少女の顔が一杯に広がる。
その整った容貌は、場違いなほどに美しかった。
しかし、人間などではないのだ……断じて。
細い指が、俺の顎に触れる。
「――もう終わり? 思ったよりつまらないわね」
「――そりゃどうも」
ジャッ……、と鈍い音が、二人の間でした。
こっそりと左手で隠し持っていたナイフが、女の服と身体を切り裂いた音。
そして間髪入れず、逆手で持ったそのナイフを胸へと突き立てやる。
飛び散る赤いもの。
――さすがに、少女の顔が変わった。
その瞬間、俺はわけも分からず吹き飛ばされていた。
「ぐ……あ……っ」
壁に叩き付けられ、激痛に苦しみながらも何とか起き上がろうとして――気づく。左肩から下がまったく動かないことに。
「い……きなりこれかよ……」
見なくとも分かった。
完全に左肩が砕けてしまっている。
ほんの今、女が振り払うようにした拳に触れただけで。
バキン、と音がする。
見れば、引き抜いたナイフを女が片手でへし折った音。
この女は、常軌を逸した怪力の持ち主のようだった。なるほどこれならば、素手で人間をバラバラにすることなど簡単かもしれない。
……冗談じゃない。あんな風にされてたまるか。
「……ちょっと、今のは痛かったわ」
不機嫌な顔になりながら、そいつはナイフを放り捨てた。
「……そりゃざまぁねえな。なめてるからさ」
壁に体重を預けながら何とか立ち上がり、皮肉げに笑ってやる。
こんな状況下でも強がりが言えるのは、普段からの性格のたまものだろう。もちろん虚勢だ。どうせ逃げられやしない。だったら減らず口でも叩いておかないと、やってられない。
そんな俺の様子をまじまじと見て、女は小首を傾げてみせた。
「ふうん……。怖くないの? 私のこと」
「誰が。そんな外見してて、どこを怖がれっていうんだよ」
――もちろん、そんなことは嘘だ。
じろりと睨んで尋ねてくる女は、今までに感じたことのない殺気の持ち主で、総身に粟立つのを止められやしない。
その内面的な恐ろしさの前には、外見など何の意味も無かった。
いや――そんな姿をしているだけに、余計に残酷だ。
「……やっぱりお前か? ここ最近の殺しは」
時間稼ぎのつもりではなかった。ただ、確認しておきたかっただけで、聞いてみる。
「そうよ」
悪びれなく、そいつは頷いた。
「動機はなんだよ」
「動機? そんなの」
くすりと笑われる。
「踏み躙りたくなるの。人間を見ていると」
/由羅
自分と良く似ているけど、その実出来の悪い模造品としか思えない作りの悪さで、生きている人間。
目覚めてすぐは何とも思わなかった。いや、それどころかそんなのに恐怖すらしたのだ。
でも時間がたち、いろいろ分かってくるにつれてそんなことは杞憂であったと思わされる。むしろ、そんなことを思っていた自分が馬鹿のようだ。あの少女が追われている自分を見て、不思議そうに首を傾げていたことも、今では頷ける。
そう。きっかけは、目覚めてすぐに出会った少女。
彼女に会えたことで、自分を認識し、その力を自覚できるようになったのだから、感謝してやまない存在だ。
今さらながらに思えば、あの少女も人間ではなかったのだろう。なぜなら人間を前にして常に感じる優越感や支配感を、まったく感じなかったのだから。
もう一度会いたい。
そう思ったからこそ、こんな国までわざわざやって来たのだ。
多分、この町に住んでいる。そう言っていたし。
初め、こんな夜に出歩いていたのはその少女に会いたかったから。
あの人は昼間よりも、こんな夜にこそ出会える気がした。……根拠は自分でもよくわからなかったけれど。
そんなことをしているうちに、偶然人を殺した。
こちらにしつこく言い寄ってくる人間の男を、ほとんど反射的に引き裂いて。
それからこんな毎夜が続くようになった。
もっともそれ以前から少しずつ、周囲の人間に対して同じ視線で見れなくなっていたのは事実だ。
それはともかくおかげで最近は、あの人を捜せていない。
そのうち飽きたら、また捜すつもりだった。
もしかしたらあの人も、私と同じことをしているかもしれないし。
/真斗
「……なるほど。とどのつまりは快楽殺人か。まあ同じ人間でもそういうことをする奴はいるんだ。お前みたいな化け物が何考えてようと……不思議じゃないってか」
「……化け物?」
その言葉に、女の柳眉が逆立つ。
どうやらその表現がお気に召さなかったらしい。
「そういえばさっきも言っていたわね。人間にそんなことを言われるのは不愉快よ」
「はっ……自覚が足りないんじゃねえの」
「……私が聞きたいのはあなたの悲鳴だけ。悶える姿だけを見せてくれればいいの。そう……そろそろね」
「……そうかよ」
疲れたように息を吐き出して、今まで離さずに手にしていた拳銃を、俺はそいつへと向けた。
女が冷笑する。
「当たれば確かに痛いけれど、そんなものじゃ私は殺せないわ」
……その通りだろうな。
例え急所に命中させたとしても、殺せる気はしない。それこそせめて、もっと威力のある何かで身体を粉々にでもしてやらない限り。
「……嫌な勘ってのは、けっこう当たるもんだよなあ」
左肩の激痛が頭痛を引き起こして、ガンガンと殴られるように頭が痛い。
……逃げるべきなのだろうが、そいつは逃がしてくれないだろう。背を向けた瞬間に、殺される気がする。
死ぬ気は無かったが……それでも覚悟を決めねえとな……。
見ているだけで良かったのに、思わず助けようと手を出してしまったのがそもそもの間違いだったのだ。
せめて相手がどの程度危険な存在であるか、気づかれぬうちに察するべきだったのだが、今さらもう遅い。
ち……だから俺は落ちこぼれなんだよな。
つまらないことを思い出しながら、心中で毒づく。
――本当に、まったく。
「足掻きはするぜ。一応な」
覚悟して。
俺は引き金を引いた。
/エクセリア
「…………」
あれ、が目覚めてより数ヶ月。
初めて、変化を見た。
使える、と思える好機がそこにはあった。が、すぐにも自嘲する。
「私はよく見誤る……。運命ならば、為せぬことも無力とは言わぬのであろうが」
例え私であっても、運命など見えない。あるのかもしれないが、誰にも見えぬ運命など無いにも等しい。
だからこそ、自ら運命のレールを用意する。……とはいえそれも、運命と呼ぶには粗末に過ぎる、擬似的なものに過ぎない。故に脆くも崩れ去ることは多い。
それは、あるのかもしれない運命への大いなる反抗ゆえか、もしくはただ力足らぬがためか。
……それが分からぬからこそ、幾度も挑むのかもしれない。
ともあれ。
為さねば為らぬことは事実。
私はじっと……その瞬間を待った。
/真斗
「ぐぁ……っ!」
ヒビが入るほど強かに壁に打ち付けられて、知らず喀血する。
今ので肺でも傷ついたのか――何にせよ、すでに俺の身体はぼろぼろだった。
「どうしたの? 痛そうね」
首を傾げて、女は笑う。
完全に見下した声音。
その右手は俺の首を鷲掴みにしており、ぎりぎりとさらに塀へと押し付ける。
……明らかに、そいつは俺を相手に遊んでいた。
女が本気でその力を振るえば、俺などとっくに肉塊と化していただろう。信じられないほどの力の差が、そいつとはある。
「……まだ持ってたの」
女は俺が離さずに握っている拳銃に視線を落とすと、引き金にかかっている指を引き千切らんばかりの勢いで、奪い取った。
取り上げたそれをもの珍しそうに眺めた後、すでに砕かれている俺の左肩へと銃口を当て、何の躊躇も無く引き金を引く。
小さな銃声な後には、硝煙と血の臭い。
――表情こそ歪めたものの、ほとんど意地で悲鳴は上げなかった。
「ふうん? けっこう簡単なんだ」
少し感心したようにまじまじと傷跡を見てから、そいつは残りの弾数の分だけ引き金を引いた。
「……っ……!」
出血と激痛に朦朧としながらも、俺は相手から視線を逸らすことなく。
じっくりと、機会を待っていた。
もっとも残された時間は少ない。その間に、絶好の機会を見つけなければならない。
まさか本当に……使うことになるとはな。
ああ、くそ……。
苦笑する思いで、その時を待つ。
ついでに所長の馬鹿野郎とか思いながら。
「……悲鳴、上げてくれないのね」
つまらなさそうに、女は左手に持っていた拳銃を放り捨てる。
「じゃあ、こんなのはどう?」
言って、空いた左手を俺の胸へと突き立てた。
「が、ぁ……っ!」
その白く細い指は、そのほとんどを胸の中へとめり込ませている。徐々に赤く染まっていく……服。
「ほら。心臓を素手で触られるっていうのはどんな気分? あ……ふふ。鼓動が弱くなってきてるね」
女は直接心臓の鼓動を愉しみながら、ゆっくりとその指を、鉤爪のように曲げていった。そうすることで、爪は心臓を裂きながら、それを握り潰していく。
「…………へっ……」
最期の最後で。
俺は鼻をならして笑った。
「…………?」
そのことに、当然ながらそいつは不審げな瞳を見せる。
そんな女へと、不遜な態度も崩さず、言ってやった。
「高くつくぜ……俺の命」
その声と同時に。
俺はまだ生きている右手を持ち上げ、心臓へと伸びている女の左手の甲へと、その五指を同時に刻み込む。
「! なんの……」
女が声を上げるよりも早く、その甲に刻み込まれた大して深くも無い傷痕から、その痕通りに鮮血が噴き出した。
――せいぜい、後悔しやがれ。
それを目の当たりにして、そいつは思わず左手に力を込める。
ぐしゃり、と湿った音がして。
それきり、俺の全てが闇へと落ちていった。
/由羅
「――――!」
私がハッとなった時には、その両手から力も抜け、男の身体はずるずると地面に崩れ落ちた。
一瞬、思わず殺してしまったことを悔いたが、それ以上に気になることがあって、左手の甲を見る。
「…………っ」
刻み込まれた傷跡はさらに赤々として、そこから信じられない激痛が全身へと駆け巡った。
呪いだ。
直感的に、そう判断する。
己の命――心臓を贄にして、この人間は今際に呪いをかけたのだ。
なんていう……ことを。
遊び足りないどころではなく、遊びが過ぎた。
見たところ、これは簡単には解けそうもない。命を賭けているだけあって、相当厄介な代物だ。
――痛い。とても、痛い……。
私はぎり、と歯を噛み締めると、怒り任せに死体を蹴りつけた。何の抵抗もなく、吹き飛ぶ身体。
その瞬間、カッと傷口が開き、赤いものが勢いよく噴き出した。
そして左手を襲う激痛。
「…………ぅ」
ズキズキと疼く左手を押さえながら、私は恨めしげな瞳を、転がった人間の死体へと向ける。
あれはただの人間じゃなかった。
確かに弱くて、脆かったけれど……とんでもないものを刻み付けてくれた。
――信じられない今夜の痛手に。
私はただ――後悔した。
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