第45話 親子

 空は徐々に青く、夜明けまで僅かだと知れる。
 しかし対照的に、辺り一面は血の海だった。
 今この場に、自分以外に立っている者などいない。
 いや、その自分だって……。

「…………っ」

 がくりと膝をつき、痛む傷跡に手を当てて、イリスは表情を歪める。

 目に見える者を全て殺し尽くして、終わってしまったことで……痛みがまた蘇ってきてしまう。
 痛い。とても痛い……。
 これから、自分はどうすれば良いのだろうか。
 片腕を失い、そしてベルヌークを始めとする僧会の者達を、皆殺しにしてしまった。
 これではもう、アルゼスの元には戻れない……。
 それは、帰る場所を失ったも同じこと。
 それは彼女にとって、大きな不安だった。
 どうして不安に思うのか、それは分からなかったけど……。
 自然に身体が震え出してしまう。
 イリスには、それを止めることはできなかった。

「いやはや……まさか本当に泣いているとはな。掛け値無しにびっくりだ」

 声は突然に響いて。
 返り血に染まった顔を、彼女は上げる。

「――――」

 そして、息を呑んだ。
 視界に映ったのは、いつだったか……自分を負かせた青年。
 この戦場に赴けば、もしかすると会えるかもしれないと思っていた……相手。
 何かを思うよりも早く、身体が動いてしまっていた。
 近くに落ちていた武器を拾い上げると、物も言わずに襲い掛かる。
 それは恐ろしく迅速で、致命の一撃に見えた。
 しかし。
 響き渡った剣戟は、イリスに無力を痛感させるだけだった。

「……いきなり刃を振り下ろすのには感心できないが、それでも首を傾げたい心境だ。いつぞやに比べ、力も足りなければ隙も大きい……。この程度では俺は殺せないな」

 剣で一撃を受けたフォルセスカに、はっきりとそう言われて。
 力を無くしたように、イリスはその場に崩れ落ちた。
 そして、ぼろぼろと大粒の涙を零し始める。

「……貴方のせい、なんだから……。こんな、こんなことになったのも……」

 ぎりぎり聞き取れるかどうかの小さな声で、彼のことをなじり出すイリスを、フォルセスカはしばらくじっと眺めていた。
 一度フォルセスカに負け、そして精神的に不安定になっていたところで、ブライゼンとアルティージェによって傷つき、無残に退くことになって。
 自分なりに頑張ったにも関わらず、しかしベルヌークは認めるどころか化け物なんて呼んで。
 そして自ら全てを皆殺しにしてしまい、居場所すら失ってしまった。
 もうどうすればいいのかなんて、分からない。
 本当に、分からない……。

「そうか、俺のせいなのか。それは弱ったな」

 そんなイリスからは何の殺気も感じられず、まるで親に捨てられた小さな子供にしか見えなかった。
 周囲を見渡せば、彼女が壊滅させた僧会の兵達の屍が転がっているというのに、まるで被害者のようですらあって。
 哀れといえば、哀れな姿だった。

「……ブライゼン殿には悪いが」

 小さくつぶやくと、フォルセスカはそっとイリスの前にしゃがみ込み、先を失った右腕へと手を伸ばす。
 イリスは何の抵抗もすることもなく、顔を上げることすらできずに、泣きじゃくり続けて。

「さすがにこのままというのは忍びないからなあ……」

 フォルセスカは手にしていた娘の腕を、その切れた先へとそっと押し付けて、何事かつぶやいた。

「え……?」

 突然戻った感覚に、イリスは驚いてその腕を見る。
 失っていたはずのものが、そこにはあって……今までが嘘だったかのように、腕は綺麗に元に戻っていた。

「これは驚いたな」

 傷すら残らずに治ってしまったことに、そうしたフォルセスカ自身、驚きを隠せなかった。
 咒法を用いた治療とはいえ、ここまで綺麗に治るものではない。切断された身体の一部を元に戻すなど、むしろ成功する可能性の方が低いくらいだ。
 だというのにここまでうまくいくとは、彼とて思わぬことだった。しないよりましだろうと思ってのことだったのだが……。

「さすがにあいつの娘というところか。本当に大したものだな」
「……どうして? どうして治してくれたの……?」

 不思議で不思議でしょうがないといった表情になって、イリスはフォルセスカを見た。

「なぜって? それは何というか、語るまでもないんだが」

 そう、理由など語るまでもない。
 親と子。
 それだけで充分だろう。
 しかし自分が親であると言わぬ以上、その理由を語ることは至難となってしまう。

「まああれだな。お前は俺の死神になれと言っただろう? だっていうのにこんなに元気がないんでは、俺としても張り合いがない。なにより、困って泣いている子供なんぞを見てしまったら、見て見ぬふりも難しいものだ」
「わたし……わからないの……。これから、どうすればいいのか……どこに行けばいいのか……」

 イリスはほとんど無意識のうちに、フォルセスカにすがってしまっていた。
 ずっと、いつか殺すと決めていた相手であるにも関わらず、そんなことなど忘れてしまったように。

「確かに、かなりのことをやらかしてくれたようだからな。あっちにも帰り難いか」
「ねえ……教えて……。教えてよ…………フォルセスカ」
「――――」

 少し驚いたように、フォルセスカはイリスを見返した。
 ただ名前を呼ばれただけ――それだけのことだというのに。

「ふむ……覚えてくれていたのか」

 尋ねるまでもなく、そういうことなのだろう。
 自然と、表情が緩む。
 嬉しくないといえば、それは嘘になるだろう。

「さて、な……」

 ……これは大きな機会なのかもしれない。
 イリスを――娘を、自分の手に取り戻すための。
 今イリスは居場所を見失い、とても不安定な状態になっている。そしてまだ幼い。今からでも娘として育てることは、充分に可能だという気がしてならなかった。
 その大きな機会が目の前に、ある。
 ある、が……。

「無粋だな。今更、とは……」

 誰にともなく首を横に振り、フォルセスカはその機会を放棄することにした。
 しかしその代わりにと、もう一つの機会をいかすことにする。

「…………あ」

 フォルセスカに抱き寄せられて、イリスは小さく声を上げた。
 ――気持ちいい。
 よくわからないけど……とても、心地良くて。
 それで安心したかのように、イリスは意識を手放してしまう。

「……まったく。無防備なものだな」

 すやすやと眠るその寝顔を見るのは、いったいどれほどぶりになるのだろうか。
 姿は大きく成長したとはいえ、やはりその寝顔は変わらない。
 本当ならば、いつまでも見ていたかったその寝顔。
 だが、永遠とはいかない。
 夜が明ける。

「これまでだな」

 フォルセスカはイリスを抱きかかえたまま、後ろを振り返った。
 そこには一軍が、姿を現していた。
 そしてそれを率いる将と思しき青年が、ゆっくりと一人で近づいてくる。
 フォルセスカにとって、見覚えのある相手。

「お久しぶりですね」

 友好的な口調で声をかけられ、フォルセスカはディアンへと頷いてみせた。

「そうだな。十年以上もたつが、元気そうで何よりだ」

 ディアンはフォルセスカにとっての後輩に当たる。
 彼は五つほど年下ではあったが、まだ若いながらもその才気にはフォルセスカも気づいていた。

「今回の戦では、少々やられはしましたけどね。まあ概ね元気です」

 軽く肩をすくめ、何でもないことのようにディアンは言う。

「それにしても、またいいタイミングで現れたものだな。俺の予想では、もっと早くにここに到着していたはずだと思ったんだが……わざと、かな?」
「そうですね。ここがこうなることは、その子の様子からある程度予想していましたので……」

 ディアンが第二軍の到着を遅らせたのは、イリスが暴走することを見越して――ということだろう。
 おかげで本隊はほぼ全滅したが、彼の率いる第二軍は無傷で残った。

「司教様も、ああいう方でしたから。その子を扱えるとは思っていませんでした」
「わかっていて、進言しなかったのか?」
「そんなところです」

 あっさりと、ディアンは頷く。

「前からそうだったが、食えないやつだなあ。しかしまあ……お前のような人材がいるかぎり、僧会もしばらく安泰か。手強いことだ」

 見たところ、ディアンにイリスを恐れている様子はない。
 しかもここにこうやって来たのは、今回の惨劇を引き起こしたイリスを連れ戻すため――だろう。

「別に、僧会のため……というわけでもないんですけどね。ただ、その子に敵とされたくなかっただけで。もうしばらくその成長を見ていたかったので、今回はあえてしばらく離れていることを選んだ……ただそれだけです」
「イリスとは、長いのか?」
「そうでもありません。前回の異端裁定の時に初めて……ですから。まだわずかですが、それでも気に入ってしまったのは事実ですね。まあそういうわけですので、イリスを返して欲しいのですが」

 本題を口にするディアンへと、フォルセスカは小さく頷いてみせた。

「……少し、意外ですね。こうも簡単に了承していただけるとは思いませんでした」

「俺とイリスのことは知っているのか?」
「いえ。僧会はおろか、アトラ・ハシースにおいても誰も知らないと思いますよ。ただラルティーヌ大司教だけが、知っているのではないかと」
「アルゼス、か」
「猊下は黙して語ろうとはしませんけれどね。もっとも……私なりに想像はついてはいます。間違っていると恥ずかしいので、口にはしませんが」

 だからこそ意外に思うと、ディアンは言う。

「色々と事情があるということさ。ここでイリスを引き寄せるのは、まだいくらも不都合がある。いずれ、だな」
「そちらの事情は知りませんが、ここで返していただけるのであれば、私は充分です。……よろしいですか?」

 一歩前に出て、イリスを受け取ろうと両手を出すディアン。
 フォルセスカはそれに応えつつも、手渡す寸前で、手を止めた。

「一つだけ条件だ。恐らくこれからブラフト・ダーンに向かうんだろうが、それをしばらく待って欲しい」
「と言いますと?」
「城は空っぽじゃないからな。俺が帰りに寄って、引き揚げるように説得する。その後に再占領すればいい」

 僧会の最終的な目的は、一度ブライゼンに落とされたブラフト・ダーンの奪取と、クリセニアの再統治にある。

「条件としては悪くありません。いいでしょう。数日ここに留まってから、ブラフト・ダーンに向かうことにします。それにどうせ……」

 ディアンは屍だらけの周囲を見渡してから、言葉を続けた。

「ここの始末をしなければならないでしょうから、ちょうどいいですね」
「ついでにこいつのことも、よろしくされてくれ」

 イリスは眠ったまま、ディアンの手へと渡る。
 そこには死神としての表情は一切無く、泣き疲れて眠ってしまった年相応の少女の顔でしかなかった。

「あと、ラルティーヌ殿にもよろしく、ってな」

 軽くそう告げると、フォルセスカは振り返ることもなく、その場から歩み去った。
 そこにイリスと離れることへの未練など、微塵も感じることはできなかったが、だからこそ裏返しの意思表示ではなかったかと、ディアンはその背を見ながら思う。
 何にせよ――

「愛されていますねえ……」

 決して、哀ればかりではないと。
 満足げに、彼は腕の中の少女を見つめた。


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