第32話 懸念の予感

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「現状では情報が少なすぎる」

 大きな広間である一室に、低い声が静かに響く。
 それに反応するように、アルゼスの向かいの円卓に座る初老の男が勢いよく立ち上がった。

「なればこそ申し上げているのです! ブラフト・ダーンが落ちたことは、周知の事実。ここは一刻も早く裁定軍を派遣し、事態を収拾すべきと心得る」

 語気も鋭く、ベルヌークは告げる。
 その様子は、いつになく余裕が無かった。
 ――理由は、この場にいる誰もが承知していることであったが。

「……ベルヌーク司教。私は何も、派遣に反対なわけではない」

 頬杖をつき、どこかなだめるようにアルゼスは口を開く。

「遺憾な状況であると、私も判断している。今後のためにも、事態の早期解決は必要だろう。そのために軍を派遣することも、やぶさかではない……が」
「……では何をためらわれるのです?」

 椅子に腰を落ち着け、ベルヌークは不満な表情を隠そうともせず、アルゼスへと尋ねた。
 パルティーン寺院、裁黒の間。
 この場に列席するアトラ・ハシースの高僧達は、沈黙する大司教を皆一様に見返した。

「……言った通りだ。現状では相手が何者であるかもわかってはいない。しかしただの曲者ではないだろう……。時もかけず、一城を落とすほどの相手だ。迂闊な妄動は、相手の思う壺となりかねん」
「――一夜で城を落とす相手であるからこそ、我らも急ぎ備えねばならぬのです。ただ座していることこそ、後の災いとなりましょう」

 即座に軍を派遣し、ブラフト・ダーンの異端を殲滅する。
 情報は足りないとはいえ、ベルヌークの言うことにも、それなりの理はあった。
 僧会に対する明らかな敵対行動があったにも関わらず、ただ手をこまねいているだけでは、世俗諸侯に対して僧会の権威を貶めることに繋がりかねない。
 ただでさえ、ブラフト・ダーンは一度異端裁定を行っている地なのだ。あの異端裁定によって僧会の力を見せつけることができたというのに、今回のことでそれが一気に覆ってしまいかねない。
 だからこそここは、すぐにも何らかの行動を起こし、僧会の力を再認識させる必要がある。そのためには異端裁定の発動も、必要となるだろう。
 しかし、何かがアルゼスをためらわせていた。
 悪い予感、とでもいうか……。

「猊下。たとえ相手の力がわからずとも、我らには例の死神がおりましょう」

 列席する比較的年若い司教の言葉に、アルゼスは重々しく首を横に振った。

「今回、イリスを使うつもりはない」
「使わない……? それはなぜですか」

 円卓に、わずかにざわめきが広がった。
 死神――彼女の力は、前回の異端裁定によって大いに知られることとなった。
 その尋常ならざる力は、恐れさえ抱かせるに充分であったが、それも味方と考えれば非常に頼もしい存在である。

「あの者の力は皆も承知の通り……だが、今あれは精神的にどこか不安定だ。諸刃の剣になりかねぬ。慎重に扱うべき存在だ」

 今戦場に、あの少女を出したくはなかった。
 イリスは前回の異端裁定以降より、少し様子が変わっている。今これ以上の変化のきっかけを、イリスには与えたく無いというのが、アルゼスの心境だった。
 ――変化。
 それは良くない方へのものだと、知らず気づいていたからかも知れない。

「あの死神は猊下の所有物である以上、我らが口を挟むことでもない。しかし軍の派遣については、了承を頂きたい」

 イリスのことはともかく、しかし異端裁定については譲れぬと、ベルヌークは食い下がった。
 今回のこと、彼が躍起になるのには理由がある。
 ブラフト・ダーンの管理が、ベルヌークに任されていたこと。そのブラフト・ダーンを失ったということは、彼の責任問題に繋がってしまう。ベルヌークにしてみれば、ここは何としても名誉挽回したいところであるのだ。
 そしてもう一つ、ブラフト・ダーンにて殉死した聖職者の中に、彼の身内がいたということも、しきりに軍の派遣を訴える大きな要因になっているのだろう。

「…………」

 このまま軍を派遣することに、不安はある。
 しかしその不安は漠然としたもので、確たる理由があるわけではない。
 そして彼自身、それを抜きにすれば、たとえ情報不足のことを含めたとしても、異端裁定の発動に反対する気はなかった。
 何らかの行動は起こさなければならないのならば、それこそ早い方がいい。発動の後でも、慎重に事を進めることは充分に可能なのだから。
 それに先の意見の交換では、この場にいる者のほとんどが、ベルヌークの意見に賛同している。最終決定はアルゼスによるものとはいえ、この場での大勢の意見を無視することは難しいだろう。
 結局――状況は極まっているのだ。

「……いいだろう。現状を鑑みて、軍の派遣はやむを得ない。異端裁定の発動を認可しよう」
「賢明なご判断です」

 ベルヌークは頷き、そして即座に先を続けた。

「では第一陣を、私にお任せいただきたい」
「問題はない。だが先陣は現状の把握と心得よ。むやみな交戦は避け、情報収集を旨とし、逐一報告を怠らぬよう」
「……承知しております」

 アルゼスの言葉に僅かに不満そうな顔をみせたものの、ベルヌークは何も言わずに頷いた。


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