第29話 レダとヴァーグラフ

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「…………」

 暇を見つけて城を抜け出したレダは、目的の相手を前に、仁王立ちしていた。
 精一杯虚勢を張って、膝が笑い出さないように気合を入れて。
 ―――それでも、やはり恐い。
 とうせんぼされて足を止めた黒い物体は、じいっと彼女を見下ろしている。

「い、いい? あなたはこれから私と一緒に……」

 何とか声を絞り出すレダをしばし眺めた後、ヴァーグラフは進路を変えて歩き出す。

「え、ええ? ちょ、ちょっと……」

 完全に無視されてしまった。
 視線を逸らされたことで、全身にかかるプレッシャーは消えたものの、これじゃあ意味がない。

「待って……待ちなさい!」

 思わず叫び、ヴァーグラフの前に回り込んで立ち塞がる――が。
 不意に伸びた黒い影――太い腕が、彼女を軽く押し退けて――いや、弾き飛ばしてしまった。

「ひゃあ……!?」

 あっさりと弾かれてしまったレダは、為す術なく数メートル宙を舞い、そして水飛沫を上げて沼に落下する。
 そんな彼女に目もくれず、すたすたと歩いていくヴァーグラフ。

「う、うう……」

 何とか岸へと上がってきたレダの目には、遠ざかっていく黒い尻尾がむなしく見えるだけ。

「全然相手してくれない……」

 正直泣きそうな気分だった。
 沼に落ちたおかげで怪我はないようだったけど、ずぶ濡れで、哀しくなる。
 ――フォルセスカと約束してから数日。
 彼女は早速ヴァーグラフを相手に頑張っていたのだが、成果はちっとも上がっていなかった。
 何とか言うことをきかせようとするのだが、全く相手をしてくれない。
 とりあえず一緒に散歩ができるようになろうと、自分なりに目標を決めはしたのだが、ヴァーグラフの眼中にレダの姿は無いようだった。
 ……何ていうか、ただただ悔しい。
 でも、それも当然か。
 未だあの黒い獣を前にして怯えているのだ。そんな自分などに興味が湧くはずもない。

「う~……」

 這い上がったレダは、遠ざかるヴァーグラフを睨みつけた。
 せめて、どんな形であれ自分に関心を持たせないと、何も始まらない。その為には恐がってなんか、いられない……。
 レダは意を決すると、その場を駆け出した。
 そして一気にヴァーグラフに追いつくと、その尻尾にしがみ付く。

「止まりなさい……っ。私の言うことを――――うわああっ……?」

 命令口調は一転、悲鳴に変わった。
 さすがに煩わしいと感じたのか、立ち止まったヴァーグラフはその尻尾を縦横に動かして、しがみ付いているレダを振り払いにかかったのだ。

「…………っ」

 ずどんっ、だの、どすんっ、だの地面に容赦無く叩き付けられながらも、レダは尻尾を離さなかった。
 身体中が悲鳴を上げていたけど、今は無視だ。
 今離して倒れてしまったら、きっともう、立ち上がる気力は残っていない……。
 でも、長くはもたなかった。
 気力はともあれ体力の方が、先に尽きてしまったのだ。
 腕から力が抜けて、尻尾を振る勢いのまま、レダは宙へと吹き飛ばされてしまう。
 そして――落下。

「あぅ……!」

 背中から落ちて、強か打ちつけられた身体の痛みに声を上げる。
 もう充分に全身打撲であったが、それでも地面が草むらであったのことが幸いしていた。多少はクッションとなってくれて、衝撃を吸収してくれている。
 だがすぐに立ち上がれない程度には、身体を痛めてしまっていたのも事実だ。

「う、う……」

 何とか立ち上がろうともがくレダであったが、不意に目の前に影がさして――何かに身体を押さえつけられてしまう。

「…………!?」

 見れば、自分はヴァーグラフの前足に踏み付けられてしまっていた。
 もはや、逃れることはできない。……相手との力の差は歴然としているのだから。
 今のところ、軽く押さえつけられているだけであったけど、もし体重でもかけられでもしたら、それで彼女は終わりだ。それこそあっさりと潰れてしまうことだろう。
 そんな自分を、ヴァーグラフは見下ろしている。
 どんな表情で見下ろされているのかは分からなかったけど、ただただ恐かった。
 まるで、蛇に睨まれた蛙。
 身体はぴくりとも動いてくれない。――いや、ちょうど良かった。震え出さないだけ。
 ……でも、これから自分はどうなってしまうのだろう。
 恐怖と不安で一杯だったレダだったが、それとは対照的にのんびりした様子で欠伸をしたヴァーグラフは、そのままその場に座り込んでしまう。
 無論、レダを下に敷いたまま。

「え、ええっ……?」

 ヴァーグラフはもう見ていない。目を閉じてしまっていて、気持ち良さそうに丸くなっている。

「ちょっと、うそ……?」

 レダは慌ててそこから出ようともがくが、如何せんヴァーグラフの巨体の前では、びくともしなかった。
 地面の草のクッションと、ヴァーグラフのやわらかい身体のおかげで何とか潰されずにはすんではいるが、自力での脱出は不可能だろう。
 と、慌てるレダを、微かに瞼を開けてヴァーグラフが視線を向けてくる。

(あ……?)

 その一瞥を、幸運に見てしまって。
 何となく――分かってしまう。
 これは、ヴァーグラフが自分を試しているのだ。
 フォルセスカも言っていたけど、ヴァーグラフはただのケダモノではない。言葉こそ操れないものの、その知能はきっと人間並みだ。
 それに加えてこのヴァーグラフは、フォルセスカの命に忠実である。たとえ懐くことはなくとも、決してこの城にいるものを襲ったりはしないだろう。――レダ自身を含めて。
 だからここで悲鳴の一つでもあげて、誰かの助けを呼べば、簡単にここから逃れることはできる。
 でもそれをしたら、多分もう二度と、この魔獣は自分を見てはくれない……。
 さっきの一瞥は、レダがどんな顔をしてるか見るため。見込みがあるかどうか、観察しているのだろう。
 しかしどうしてそんなことをしてくれるのか。
 ……答えは簡単だ。ヴァーグラフの知能は人間並み。レダとフォルセスカが約束したあの時、あの場所にはヴァーグラフがいたのだから。聞いて、理解しなかったわけがない。
 きっとフォルセスカの手前、多少は気にかけてくれる程度には、義理立ててくれているのだろう。
 つまり、これはせっかくのチャンスなのだ。
 ここで音を上げてしまったら、ヴァーグラフはきっと、この先相手になってくれることはない……。
 根競べ、だ。
 そこまで考えて、覚悟を決める。
 こうなったらヴァーグラフがこちらの言葉を聞いてくれるまで、絶対に離れてやらない。ずうっとくっついていてやる――と。
 レダは自分の侍女としての仕事も忘れて、頑張ることにしたのだった。


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